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第三十四話 病院へ 2

Author: 柳アトム
last update Last Updated: 2025-09-02 03:46:17

 いつも通り病院に出社した私は周囲の噂話にまみれる。

「昨日の車の爆発炎上の事故、凄かったね」

「この病院の近くで、あんな事故が起こるなってびっくり」

「あの事故で怪我をした男性が、うちの病院に搬送されたそうよ」

「そうなの!? 確かその男性って大企業の社長さんよね?」

「警察の方も大勢来るでしょうから、今日はいつも以上に騒がしくなるかもね」

 私は気が気ではなかったが、落ち着くよう自分に言い聞かせ、目の前の業務に集中した。

 病院には大勢の患者さんが来院される。

 その内、誰一人として重要でない人なんていない。

 誰しもが誰かの大切な人で、私の取り扱う業務は、そうした人たちにとって重要な手続きや事務処理なのだ。

 私が宗司さんを大切に思うように、来院者の皆さんも誰かを大切に思っている。

 私の業務は、そうした方々の思いや期待が寄せられる業務なのだ。

 たった一つの会計処理だって、決して疎かにすることはできない。

 私は落ち着かない心を必死に抑え込み、目の前の業務に喰らいついた。

「充希さん、目が赤い。───泣いてるの?」

 私を気遣ってやって来たのは崚佑ゆうすけさんだった。

 私は「え?」と思ったが、その瞬間、自分の目が涙でいっぱいだったことに気付いた。

 慌ててハンカチで目頭を押さえる。

「情緒が不安定。知らず知らずに涙が溢れる。妊婦さんによくあること。温かいお茶を飲むと気持ちが落ち着く。おすすめはルイボスティー」

 崚佑さんは、私が妊婦特有の気持ちの浮き沈みが出ているのだと勘違いしたようだ。

 矢継ぎ早にどうすれば気持ちが落ち着くかをあれこれアドバイスしてくれた。

 私は、今、自分が涙を浮かべていたのは別の理由であるとは思いつつも、崚佑さんの気遣いに水を差すことはせず、言葉を受け入れた。

 そうして私たちが会話をしている所に、母・みどりが急ぎ足でやってきた。

 私は母の姿を見て、思わず席を立ち上がった。
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